大阪の北部、豊中市に不妊専門クリニックを開業してから、早いもので10年目になりました。今回ブログを始めるにあたり、初回は、院長である私、園田桃代について少し知っていただきたいと思い、私の不妊治療に対する思いを書かせていただきました。
医師になる際、私が産婦人科を選んだ理由は、お産が見たい!出産という生命の始まりの瞬間に立ち会いたい!これが理由でした。
産婦人科の仕事は大きく3つに分かれます。
- 妊婦健診、出産などに関わる周産期グループ
- 子宮がんや卵巣がんなどに関わる腫瘍グループ
- 不妊に関わる不妊・内分泌グループ
1995年(四半世紀も前ということにビックリします…)の春、希望に満ち溢れた25歳の私は産婦人科医としての研修をスタートしました。
その頃の記憶がないくらい毎日バタバタと働き、充実した研修を送っていた私は、当然これから何年か先には周産期グループに入り、バリバリと働く自分の姿を想像していました。
しかし、ある日、忙しい毎日の中で、突然、全身に閃光を浴びるような衝撃を受ける事件が起きたのです。
ある先輩の、“桃ちゃん、これ見てごらん“の一言で覗いた顕微鏡の先で見たものに、私は一瞬でその世界に引きずり込まれました。私が目を奪われたものは、体外受精で採卵し、その後受精をさせた受精卵でした。受精卵というのは、こんなにも綺麗で、生命の始まりを感じさせるもので、これこそ生命力あふれるという言葉がピッタリだと恐ろしく感動したのを今でもはっきりと覚えています。そのときの私は少女漫画の主人公のように目がキラキラと輝いていたに違いありません。
その後の私が、迷うことなく、不妊・内分泌グループに入ったことはご想像できるかと思います。
当時の体外受精は、現在のような不妊クリニックが主体ではなく、大学病院がメインとなり行われている治療でした。私が大学病院にいた頃は、今では体外受精を行う施設には当たり前にいる胚培養士というスタッフはおらず、医師が体外受精の全ての行程を行っていました。外来診療中に、受精卵凍結の時間が迫り、首から掛けたタイマーが鳴ると研究室に大急ぎで走って行くこと、胚移植のときには、3階で培養している受精卵を大事に持ち、転ばないように1階の診察室まで階段を駆け下りていくことなど、今思えば考えられないことですが、それが当たり前の光景でした。それはそれで楽しく仕事をしておりましたが、やはりそれでは限界がきます。やがて私は、大学病院から飛び出す決意を固め、いざ大阪へ出陣となりました。大阪に出てきてからは、不妊専門クリニックで、有難いことに多数の患者さんを診させていただき、しっかりとした指導を受け、何年か後に自分でやっていく自信を付けることができました。
そして2010年、大きな期待と希望を胸に桃クリをオープンいたしました。
桃クリにはたくさんのスタッフがおります。
優秀な胚培養士がおり、私が受精卵を持って階段を駆け下りるということはなくなり少し寂しい気もしますが、彼らがいてくれるおかげで、最高の培養環境、培養技術を提供できております。
経験豊富な看護師集団!は私にとってもですが、患者さんにとっても大変頼もしい存在であることは間違いありません。気が付けば、皆さんのそばに寄り添ってくれていることと思います。
受付は、患者さんと最初に顔を合わせ、最後に見送る大事な役割を担っています。その中で、皆さんが困っていることの手助けをしたり、待合にいらっしゃる皆さんに常に目を配ったりしております。
医師は、園田桃代と、小柳良子の二人体制で診療にあたっております。
小柳医師は、私が大学病院の不妊・内分泌グループで働いていた最後の年に不妊グループに研修にきた医師で、その頃から優秀で、“不妊グループに来てほしいな~”と密かに思っていました。不思議と縁があり、救世主のように現れた小柳医師は今では、桃クリになくてはならない存在となっています。
皆さんが笑顔になれるよう、スタッフ一同サポートしてまいります。
よろしくお願いします。
院長 園田桃代